三、近世・近代の宝金剛寺

寺院法度と本末関係

 江戸時代は幕府の方針として、寺院は本寺末寺の関係で支配された。幕府は各宗本寺の勢力を強化し、それを通じて末寺を中央に吸収した。末寺は殆んど絶対に本寺に服従しなければならなかった。つまり、末寺住職の任免、上人号等の執奏、異動の取締、訴訟願届の添状等すべて本寺の権力内にあった。
 幕府は寛永九年(一六三二)九月から十年にかけて諸宗に命じて各寺院の末寺を書き上げて提出させた。いま『諸宗本末帳』として内閣文庫に所蔵されているが、その後も何回か末寺改めをしている。宝金剛寺は本寺として末寺三拾一ヶ寺を有した。従って本末関係の記録が数多く残されている。
 慶長十八年(一六一三)、関東真言宗諸本寺充てに出された「関東真言宗法度」の文書が寺にある。

関東真言宗法度
一、 為 二 学問 一 住山之所化不 レ 満 二 弐拾年 一 者不 レ 可 レ 執 二 法瞳 一
一、 入 二 学問室 一 後闕座之輩於 レ 有 レ 之永可 レ 抜 レ 衆事
一、 座位可 レ 為 二 学問階﨟次第 一 付不 レ 遂 二 住山 一 不 レ 可 レ 着 二 香衣 一
一、 諸末寺之僧衆不 レ 可 レ 背 二 本寺之命 一 詰 二 俗縁之検門 一 企 二 非法 一 事付
   不 レ 可 レ 奪 二 取他寺之門徒 一 事
一、 不 レ 伺 二 本寺 一 不 レ 可 レ 居 二 住末寺 一 事
   右堅可 レ 守 二 此旨 一 者也
   慶長拾八年五月廿一日 御在判
    関東真言宗諸本寺

 初めの三項目は学問の奨励、次の二項目は本寺末寺制度の確立であって、本寺の命に背いてはならない。また本寺の了解を得ないで末寺に居住してはならないことを法度として定めている。寺院の法度は家康が駿府に居を定めて政をみるようになって次々と出され、慶長十三年(一六○八)にはじまり元和元年(一六一五)に完成した。
 元禄十四年(一七○ー)の「宝金剛寺末寺徒」がある。これは御公義の法度を堅く守るべき事という条々を末寺三拾一ケ寺に示し、末寺各寺院は後日のためと連署して黒印を押している。


一 御公義御法度之条々堅相守可被申事
一 従小田原被 仰出御法度ヶ条厳密ニ相守之可被申事
一 於小田原 御役所番外ヶ間敷儀無之様ニ諸事 急度可被相務之事
一 仏前神前掃除無油断可被致之 勿論在来仏事祭礼無懈怠可被相勤之事
一 面々行儀尋常均等ニ相慎可被申事
一 衣体之事丁寧之時者七条之袈裟可被致着用之事 附新発意等者各別之事
一 割裁三衣雖為如法中古以来者惣而 本寺田舎共ニ衲青甲為作法之間弥其道ニ可被相意得事
  右条々急度相守可被申者也
          宝金剛寺
  元禄十四辛己年七月 日
     右之通何れも承知仕奉得其意候、為後日印判相加申候、三拾一ケ寺署名 印

 これは御公儀の法度は堅く守ること。仏事・祭礼は怠らず勤めること、法要に着用する衣帯のこともこまかくとり決めている。
 内閣文庫所蔵の寛永十年「関東真言宗古義本末帳」には、宝金剛寺末寺三拾一ケ寺(ここでは三拾ケ寺)が記されているが、幕府は延享二年(一七四五)・天明七年(一七八七)・寛政三年(一七九一)など何回も本末帳を提出させている。

末寺三拾一ケ寺

 ここでは寺に残る延享二年の本末寺改めを記しておこう。冊子で「本末帳」とあり、第一頁は本寺、宝金剛寺のこと。

一相州足柄下郡国府津村 国府津山宝金剛寺 法談所
 御朱印寺中不入 寺領弐拾弐石
 事相本寺 京都東寺宝菩提院
 教相本寺 高野山
 末寺 三十一ケ寺
そして第二頁から次のように三十一ケ寺の末寺の所在地と寺名が記されている。
一境内御除地 相州足柄下郡国府津村 安楽院
同 同郡酒匂村 南蔵寺
同 同郡早川村 東善院
同 同郡同村 真福寺
同 同郡同村 正蔵寺
同 同郡石橋村 宝寿寺
同 同郡米神村 正寿院
同 同郡飯泉村 勝地院
同 同郡同村 弥勒院
同 同郡同村 大徳坊
同 同郡同村 宝寿院
同 同郡飯田村 福田寺
同 同郡曾我原村 東光院
同 同郡高田村 圓蔵院
同 同郡田嶋村 金蔵院
同 同郡沼代村 福泉寺
同 同郡同村 吉祥院
同 同郡小船村 源長寺
同 同郡川匂村 密厳院
一境内御年貢地 同郡同村 西光寺
同 足柄上郡関本村 善福寺
一境内御除地 同郡炭焼所村 玉傳寺
同 同郡弘西寺村 弘済寺
同 同郡塚原村 満蔵院
同 同郡怒田村 平等寺
同 同郡西大井村 真福寺
同 陶陵郡山西村 等覚院
同 同郡同村 成就院
同 同郡釡野村 金剛院
同 大住郡平塚村 薬師院
同 同郡同村 宝善院
 右之通、此度御改二付吟味仕候所相違無御座候、以上
  延享二巳丑年十二月
          宝金剛寺印
 江戸芝二本榎御触頭
     両御在番所

 三拾一ヶ寺の末寺は寛永八年の江戸時代の初期からいまの小田原市を中心に、東は平塚市、西は南足柄市にわたっていた。本末の関係は昭和までつづいた。
 また本寺を中心に法談が行われた。法談については慶長十四年(一六○九)「関東真言宗古義諸寺家中法談之事」、享保九年(一七二四)三月廿一日「定(法談役所化二付)」、天保十五辰年(一八四四)三月廿一日「法談役出勤控」など、これに関しての寺蔵の文書も多い。
 また、明和四年(一七六七)七月、安永九年七月の両度にわたる「宗門并鉄炮御改証文」、寛政八年(一七九六)三月の「宗門改帳」などがある。「宗門并鉄炮御改証文」は全末寺から本寺の宝金剛寺に差し出されている。「御法度の宗門の者は一人も御座無く、寺関係の者で鉄炮所持の者は勿論預かっている者もいない」という証文である。

寺領と境内地

 平重盛が本尊地蔵菩薩の霊験に感じ、十一貫二百文の荘園を寄附したことを前述した。治承二年のことである。これが後北条氏の時代にも引きつがれている。後北条氏は度々の検地を行った。天正十四年(一五八六)三月七日・十三日・十六日と相ついでの宝金剛寺充ての文書がある。
 三月七日のものは、「掟」として諸役免除、樹木安堵のことを定めた北条氏の印判状で、奉行人板部岡江雪から宝金剛寺へ北条氏の虎ノ朱印が押してある(原色図版的19参照)。三月十三日、これは同じ板部岡江雪から寺領についての「副状」である。内容は、先年行われた検地にも三年前の御改めの帳面にも本途(年貢)については異議はなく、本増共に拾壱貫二百文の寺領と諸役を前々の如く安堵するというもの。そして十六日、城主北条氏直が宝金剛寺の寺領安堵を承認した判物(図版49参照)を寄こしている。
 江戸時代には、家康が護摩堂領として弐拾弐石を寄進した。「寄進護摩堂 相模国西部国府津之内弐拾弐石之事 右如先規令寄附畢 弥守比旨可抽武運長久 懇祈之状如件 天正十九年辛卯十一月 日 大納言源朝臣御書判」。そして二代秀忠から家茂まで代々将軍の朱印状を受けて寺領を安堵している。江戸時代にはいままでの貫高制が石高制にと変った。
 徳川の代になり新しい支配者から寺領の安堵を受けることは、寺の経済・維持のためにも急務であったし、幕府も度々検地を行った。従って江戸時代には、寺の由緒書・寺領朱印地の書出し・田畑水帳等、何回も奉行所を通じて幕府に提出している。
 現在、寺に明治十三年の神奈川県印の地券が八十枚ほどある。明治初期の土地所有確認書で一筆毎に畝歩・地価・地租等が書かれている。寺領の名残りである。昭和になり戦後の農地改革で田畑約七町歩を解放した。
 さて境内寺地であるが、寛政二年(一七九○)に寺社奉行所へ出した覚がある。

 大久保加賀守殿領分
  相模国足柄下郡国府津村 京都東寺宝菩提院末 古義真言宗
          宝金剛寺
  絵図間数書之覚
御朱印高 弐拾弐石
境内 東西百九拾壱間 南北百壱間 壱万九千弐百九拾壱坪
表門 四足門 弐間二弐間
薬師堂 三間半梁 三間半之桁行 拾弐坪弐分五厘
寺 七間半二拾壱間 八拾弐坪
玄関 弐間二三間 六坪
廊下 三間二六間 十八坪
台所 五間二七間半 三拾七坪半
右間数之通 絵図別紙二差上候所相違無御座候 以上
  寛政二戌年十二月 国府津村
          宝金剛寺
 寺社御奉行所

というもので、この本の裏見返しに使った絵図がそのとき差出した図である。寛文三年の鋳鐘をかけた鐘楼があったが、この図には入っていない。古絵図はいくつかあるが、天保四年(一八三三)の絵図では薬師堂が西に移り、寛政二年図で壱万九千弐百余坪あった境内が江戸末期には三千坪になっている。大体現在の広さである。また明治三十八年の絵図、表見返しの図であるが、これには大正十二年の関東大震災でくずれ去った経蔵・土蔵なども描かれているが、薬師堂がなく略されている。薬師堂が現在の本堂で、この建物は天明大地震のあと天明六年(一七八六)に再建されたもの。さらに昭和十年、諦辨代に改修された。現在の庫裡は寛政十二年(一八○○)の再建。棟札で確認された。昭和三十四年、当代に改修。本堂と同様、柱・梁等などは、天明・寛政時のものである。

歴代住職

 さて、歴代住職のことであるが、代々の住職の位牌の中に、世代順に住職の名を記した大きな位牌が二つある。
 一つは、梵字※※梵字※※(アー)字の下、中央に「當寺前住大和尚位」とあり、左右に住職の名が記されている。横三十センチ、縦八十センチ、厚さ三センチ余、黒塗りで、梵字と位牌の回りは金で縁どりされている。古くて薄れたところもあるが、文字は彫ってあるので、よく読める。裏に「寛文十一壬子天 聖政建立之」とある。寛文十二年は一六七二年。聖政のあと、聖雄一代だけが彫り加えられている。
 もう一つの位牌は、横二十センチ、縦七十センチ、厚さ一センチ余の板の位牌で、台にさし込んである。大分黒くなっているが、墨書した文字は読める。代々の住職名は、右から左へ、四列に記されている。いつ建立かは記されていないが、寛文ののちに造られたもので、さきの位牌の聖雄のあと、五代あとの覺辨まで書かれている。
 歴代住職については、これらの位牌のほか、古い過去帳、遣状がある。歴代住職は次のようである。
 開山杲隣大徳ー中興一海已講ー一世秀源ー二世源海ー三世秀海ー四世高範ー五世高傳ー六世恵傳ー七世榮傳ー八世恵覺ー九世恵雄ー十世實雄ー十一世秀政ー十二世來雄ー十三世快長ー十四世聖政ー十五世聖雄ー十六世快實ー十七世快筭ー十八世快尊ー十九世覺雄ー二十世覺辨ー二十一世玉辨ー二十二世昶辨ー二十三世頼辨ー二十四世義辨ー二十五世良辨ー二十六世實辨ー二十七世實乗ー二十八世慶辨ー二十九世叔辨ー三十世慶辨ー三十一世諦辨ー三十二世慈運ー三十三世辨應ー三十四世海徴ー三十五世諦辨ー三十六世諦雅
 明治以後再住がある。示寂の年月日ははぶいた。中興開山以後の世代である。
 開山杲隣・中興一海のあと第一世秀源が霊夢により薬師如来を仏閣に安置、第五世高傳が薬師堂を再建、仏舎利一粒を不動明王胎内に奉納して鎮国利人を祈ったことはすでに述べた。代々の住職はそれぞれ寺の記録、歴史の上に出て来るが、ここでは第十世實雄じつゆうのことを記す。
 古い過去帳には「法印實雄 元和四戊午二月二日 当寺住 八大坊開山」とある。遷化した元和四年は一六一八年、当寺住職で相州大山八大坊の開山と記す。寺の縁起には※※返り点「實雄法印 東照宮御代奉二豫 渥遇一蒙二公命一兼二任同州大山寺寺務一昇二進碩学一著二用色衣一、彼山改二妻帯一坊跡為二清僧寺院一」。實雄法印は家康の時代に家康の厚遇を受け、その命によって大山寺の住職も兼任、妻帯の山を改めて戒律のきびしい山に立て直したと。
『日本仏教史八巻」(辻善之助著)には「同日また関東真言宗及び大山寺に法度を下した。大山寺は関東真言宗にあって最も勢力あり。夙く慶長十年に、家康はその破戒僧を放ち、實雄を以て学頭とし、堂宇を再興し、十三年十月四日には、その学領を与へ、十五年七月十七日またその寺領を加増した。」
 また『神奈川県の歴史』(神奈川県発行)には、古くからの大山信仰の由来を述べ「こうした大山信仰の状況に対し、慶長十年(一六○五)徳川家康は不学不律の僧を下山させ、高野山の学僧實雄を大山寺別当八大坊の住持に任じ、大山寺の組織づくりをさせた」とある。高野山で学び、大山寺の中興開山になり、宝金剛寺の住職にもなっていることが分る。實雄は元亀三年(一五七二)師の第九世恵雄から宝金剛寺道場において両部の印可を受け、慶長十一年に遺状を受けている(図版52参照)。
 また實雄後の住職について、第十一世秀政法印以来、上意によって箱根山金剛王院別当となることが縁起に記されているが、金剛王院はさきの大山とともに関東古義真言宗の拠点となっていた。縁起を裏付けるように、秀政についで十二世來雄・十三世快長・十四世聖政・十七世快筭が箱根山別当、金剛王院住職となっている。
 前項「寺院法度と本末関係」で、寛永九年から十年にかけて、末寺を書き上げて幕府に提出させた「諸宗本末帳」のことを記したが、内閣文庫に残るそのうちの「関東眞言宗古義本末帳」を見ると、相模・伊豆・武蔵・駿河・東上州・西上州・下野各国から提出された本末寺調べ書上げの最後に、「寛永十癸酉二月 日」として、責任者六ヶ寺の寺院名と住職名が記されている。伊豆山・般若院、箱根山・金剛王院などとともに「国府津・寳金剛寺 秀政」の名が記されている。秀政は第十一世、広く宗内で重きをなしていたことが分る。歿年は慶安元戊子年十月十三日(一六四八)である。
 これら歴代住職の墓は、その殆んどが当寺に建立されている。またこれは住職の墓ではないが、裏山中腹の旧墓地には「建武五年戊刁三月廿四日 沙弥法明建立」(一一三八延元三年)の阿弥陀三尊の種子を梵字で彫った板碑がある。「建武古碑」と呼んでいる(図版48参照)。また境内の無縁塔には應永十五戊子十一月十一日銘(一四○八)の宝篋印塔がある。

*本文中に記述の図版等は後日掲載いたします

Hohkongohji-Temple 神奈川 小田原市