二、中世の宝金剛寺

新旧仏教と地青寺

 やがて平氏に変って、源氏の時代が来る。頼朝が政権を握り、鎌倉に幕府を開くに及んで、文化もまた次第に東漸を急ならしめる。関東は政治・文化の中心となり、仏教思想も急速に関東流布の傾向を示した。天台・真言の旧仏教に交り、浄土・禅・日蓮などの鎌倉新仏教が競い起って、天下の舞台は西から遠く東へ移動した。
 仏教文化は、鎌倉新仏教一色になったかというと、決してそうではなかった。明日をも知れぬ自己の生命を見つめ、現実的生命観に目覚めた質実剛建な中世の鎌倉武人には、未来主義の浄土教は、弱かったのかも知れない。ここに禅が栄え、また密教の再興があった。国家安全・戦勝祈願・病気平癒・除災招福等、現世利益はすべて旧仏教の密教にたよった。『吾妻鏡』にも多くの例を見るが、数々の仏像が造立された。従って、諸仏像の遺存も、いちじるしく増え、当寺にも鎌倉時代の仏像が何軀か残されている。
 さて中興開山一海已講の頃、寺の名は地青寺と称したこと。これは前に述べたが、地青寺という寺名は地蔵菩薩と関係があるように思う。大永八年(一五二八)、寺の薬師堂を改修する勧進状がある。勧進状の表題は、
「勧進沙門請 下 特蒙 二 於十方ノ貴賤檀恩 一 修 中 相陽國府津地青寺薬師堂 上 状」。
この勧進状の中に
「結 レ 帯俗呼 レ 此号 二 帯地蔵 一 因称 二 地青寺 一」
とある。ここでは前述縁起の帯解地蔵を帯地蔵といっている。「因って地青寺と称す」はお地蔵様が本尊なので地青寺と称すという意である。そのほかの説明はないが、青(しょう)は青蓮華の意と思う。青蓮華は仏の眼にたとえられる。「眼如青蓮華」(法華経妙音品)ともあり、地蔵尊の慈しみの眼の寺という意に解している。
 この勧進状は五世高傳の勧進状であるが、当寺の不動明王像の胎内文書にも地青寺の名が出て来る。一部用紙が破損しているが、
「[□皮所 地青寺第五代住、法印高傳(花押)奉納仏舎利一粒□寺内安全、興隆仏□心安穏也、天文六年十一月二日 敬白」
とあり、永仁二年(一二九四)定聖の写した十八巻の経文などとともに納められている。天文六年のこの文書のほかに、同じ胎内文書に「國府津山地青寺開山杲隣禅師云云」の文字も見える。

宝金剛寺護摩堂

 こうした時代を過ぎて室町時代になり、地青寺という名が、現在の宝金剛寺に変った。早雲のあと三代目の北条氏康が関東に武威をのばした頃である。縁起、風士記類も記載はごく簡単である。縁起には「一百六代後奈良帝弘治二丙辰歳 勅賜寶金剛寺者也」とある。江戸時代にいく度か寺社奉行所に差出している由緒書上にも「以前ハ地青寺と申候、弘治二丙辰年後奈良帝より宝金剛寺と号給候」とあって、弘治二年(一五五六)に後奈良天皇の勅によって宝金剛寺と改めたことを記している。そして、その後の文書類はすべて宝金剛寺となっている。
 宝金剛寺は、北条氏の祈願所であった。永禄二年(一五五九)氏康の時、古河公方足利晴氏の病が重く、当寺で百座の修法をしている。『小田原記』に、「同年暮より古河晴氏郷、御悩の由聞えけるが、次第に重く成せ給ふ。小田原国府津の護摩堂にて、百座の御祈有」とある。国府津護摩堂は宝金剛寺の護摩堂である。
 また、元亀元年(一五七○)氏康の病気が重いときも病気平癒の祈願をしている。同じ『小田原記』に「元亀元年の秋の頃より氏康御病気にて、日々重らせ給ふ。筥根山の別当、国府津護摩堂、花ノ木蓮乗院にて百座の御祈念」とある。
 国府津護摩堂のことは、さきにふれた五世高傳の「地青寺薬師堂勧進状」にくわしい。護摩堂のご本尊が薬師如来で薬師堂とも呼ぶ。この勧進状に
「中比有 二 秀源闇梨 一 依 二 霊夢ノ告ニ 一 従 二 隣里 一 移 二 住シテ薬師尊像ヲ 一 安 二 置寺院堂閣ニ 一 累代ノ祖修 二 覆殿宇 一 厳飾 二 仏像 一」とある。中頃、秀源阿闇梨が霊夢の告げで、隣里から薬師如来の尊像を移し、寺のお堂に安置した。累代の住職はお堂を修覆して厳そかに仏像を飾ったというのである。薬師如来座像は鎌倉時代の尊像で、寛永九年と昭和に修復されている。

*本文中に記述の図版等は後日掲載いたします

Hohkongohji-Temple 神奈川 小田原市