寳金剛寺

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中世の寳金剛寺
Hohkongohji-Temple in Medieval Times

新旧仏教と地青寺

鎌倉時代に入り庶民に新仏教が広がる。しかし国家鎮護の役割を果たす真言密教が衰えることはなかった。
この時代、鎌倉寺院と当寺との間で密教交流が盛んであったことが、不動明王胎内文書から明らかになる。

鎌倉新仏教の勃興
不動明王
鎌倉時代建立の不動明王像。胎内納入物から寺の歴史を知ることができる。
やがて平氏に代わって、源氏の時代が来る。頼朝が政権を握り、鎌倉に幕府を開くに及んで、文化もまた次第に東漸を急ならしめる。
関東は政治・文化の中心となり、仏教思想も急速に関東流布の傾向を示した。天台・真言の旧仏教に交り、浄土・禅・日蓮などの鎌倉新仏教が競い起って、天下の舞台は西から遠く東へ移動した。
仏教文化は、鎌倉新仏教一色になったかというと、決してそうではなかった。

明日をも知れぬ自己の生命を見つめ、現実的生命観に目覚めた質実剛建な中世の鎌倉武人には、未来主義の浄土教は、弱かったのかも知れない。ここに禅が栄え、また密教の再興があった。
国家安全・戦勝祈願・病気平癒・除災招福等、現世利益はすべて旧仏教の密教にたよった。
『吾妻鏡』にも多くの例を見るが、数々の仏像が造立された。従って、諸仏像の遺存も、いちじるしく増え、当寺にも鎌倉時代の仏像が何軀か残されている。
 
地青寺と地蔵菩薩の関係
さて中興開山一海已講の頃、寺の名は地青寺と称したこと。これは前に述べたが、地青寺という寺名は地蔵菩薩と関係があるように思う。
大永八年(1528)、寺の薬師堂を改修する勧進状がある。勧進状の表題は、
「勧進沙門請特蒙於十方貴賤檀恩修相陽 國府津地青寺薬師堂状」
この勧進状の中に
「結帯俗呼此号 帯地蔵因称 地青寺」 とある。ここでは前述縁起の帯解地蔵を帯地蔵といっている。
「因って地青寺と称す」はお地蔵様が本尊なので地青寺と称すという意である。
そのほかの説明はないが、青(しょう)は青蓮華の意と思う。青蓮華は仏の眼にたとえられる。
「眼如青蓮華」(法華経妙音品)ともあり、地蔵尊の慈しみの眼の寺という意に解している。

この勧進状は五世高傳の勧進状であるが、当寺の不動明王像の胎内文書にも地青寺の名が出て来る。一部用紙が破損しているが、
□皮所 地青寺第五代住、法印高傳(花押)奉納仏舎利一粒□寺内安全、興隆仏□心安穏也、天文六年十一月二日 敬白
とあり、永仁二年(1294)定聖の写した十八巻の経文などとともに納められている。
天文六年のこの文書のほかに、同じ胎内文書に「國府津山地青寺開山杲隣禅師云云」の文字も見える。

胎内文書 不動明王像胎内納入物(諸文書、水晶製五輪塔等)
 
 

宝金剛寺護摩堂

室町時代に入ると寺勢拡大の転機を迎える。本山が東寺宝菩提院に定まり寺号も地青寺から寳金剛寺に改まる。
当山は国府津護摩堂と呼ばれ、小田原北条氏の祈祷寺として大いに栄える。

宝金剛寺への改名
こうした時代を過ぎて室町時代になり、地青寺という名が、現在の宝金剛寺に変った。
早雲のあと三代目の北条氏康が関東に武威をのばした頃である。縁起、風士記類も記載はごく簡単である。縁起には「一百六代後奈良帝弘治二丙辰歳 勅賜寶金剛寺者也」とある。
江戸時代にいく度か寺社奉行所に差出している由緒書上にも「以前ハ地青寺と申候、弘治二丙辰年後奈良帝より宝金剛寺と号給候」とあって、弘治二年(1556)に後奈良天皇の勅によって宝金剛寺と改めたことを記している。そして、その後の文書類はすべて宝金剛寺となっている。
 
北条氏祈願所としての宝金剛寺
国府津護摩堂
護摩堂寺領書出
宝金剛寺は、北条氏の祈願所であった。永禄二年(1559)氏康の時、古河公方足利晴氏の病が重く、当寺で百座の修法をしている。
『小田原記』に、「同年暮より古河晴氏郷、御悩の由聞えけるが、次第に重く成せ給ふ。小田原國府津の護摩堂にて、百座の御祈有」とある。国府津護摩堂は宝金剛寺の護摩堂である。
また、元亀元年(1570)氏康の病気が重いときも病気平癒の祈願をしている。
同じ『小田原記』に「元亀元年の秋の頃より氏康御病気にて、日々重らせ給ふ。筥根山の別当、国府津護摩堂、花ノ木蓮乗院にて百座の御祈念」とある。
 
国府津護摩堂と薬師如来
薬師如来
薬師如来(修復後)
国府津護摩堂のことは、さきにふれた五世高傳の「地青寺薬師堂勧進状」にくわしい。
護摩堂のご本尊が薬師如来で薬師堂とも呼ぶ。この勧進状に、
「中比有 秀源闇梨依霊夢告従 隣里移住 薬師尊像安置寺院堂 閣累代祖修覆殿宇厳飾仏像」とある。
中頃、秀源阿闇梨が霊夢の告げで、隣里から薬師如来の尊像を移し、寺のお堂に安置した。累代の住職はお堂を修覆して厳そかに仏像を飾ったというのである。
薬師如来座像は鎌倉時代の尊像で、寛永九年と昭和に修復されている。
 
 
【出典】第36世住職 神谷諦雅著「國府津山 寳金剛寺」

 
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